カモシカと青空 第十九話『ハーバード・ジュリアードを首席卒業した私の「超・独学術」』廣津留すみれ by カモシカ書店

2014年5月、大分市中央町に誕生したカモシカ書店
古本を中心としながら新刊も取り扱い、カフェとしても気軽に利用できる癒しの場。
手作りケーキやこだわりのコーヒー、水曜日のネコというフルーティースパイシーな珍しいビールもお楽しみ頂けます。
定期的に本だけに留まらない知的好奇心を刺激するイベントを開催。

そんなカモシカ書店の店主、岩尾晋作くんのコラム第十九話です。
オムニバス的に一冊の本を紹介していく人生の短編集。
どうぞ、お楽しみください!

岩尾晋作くんへのインタビュー記事はこちら。

なお、紹介されている本は実際にカモシカ書店で購入することができます。
※すでに売切れや非売品の場合もありますので、ご来店前にカモシカ書店へお問い合わせください。

 

第十九話『ハーバード・ジュリアードを首席卒業した私の「超・独学術」』廣津留すみれ

 

大分随一の繁華街、歓楽街である都町のビルの奥の中庭にバラックみたいな不思議な建物がある。そこの2階にある「屋根裏」。ピザや生パスタを食べながら酒が飲めて楽しいのだが、「屋根裏」の白眉はそこのマスターのパーソナリティだろう。なんというか、哲学的なのだ。哲学的にお酒を飲むなんてモテないし、なんだかめんどくさそうと思われるかもしれない。だが僕が言っている哲学的というのは哲学の話をすることではなくて、若者にやさしい視線を注いでいるということだ。やさしい視線を持つということは何を措いてもまずフェアでいることを大切にしているということだ。マスターはいつもSNSで切れ味のある本をたくさん紹介していて、ときに変わった人だと思われるだろう。でも僕はそんなマスターのスタンスを尊敬している。

「それはそもそも正しいのか?」という根源的な問いを常に正直に語るマスターは、そのへんの酔っ払いのおっさんには理解されないだろうけど、変り者の若者には随分愛されているように見える。20歳前後の、少し生きにくそうに見える大分の若者たちが、夜な夜な酒を飲んだり未成年は紅茶を飲んだりしながらポツリポツリと言葉少なくも、マスターと語り合っている光景をよく目にする。飲み屋で語り合うなんて当たり前と言うなかれ。彼らは、僕の主観だが、飲み屋では会わない雰囲気の内省的な若者たちなのだ。

20歳前後で大分にいる、ということはたくさんの情報が含まれている。こんなことは余計な詮索以外の何ものでもないのだが、まず進学をしなかったか、大分の中の少ない選択肢の進路を選んだということ。色んな事情で進路どころではない、という人だっているだろう。大分にいることが一般的に望ましいか望ましくないかはわからないし、当たり前だが本人が大分にいることを望んでいるのかそうではないのかなんてことも簡単にはわからない。

彼らの気持ちを想像したくて、僕が20歳のころを思い出してみると、大分にはいたくなかったとはっきり言える。それどころか1秒でも長く、離れていたかったとすら言える。僕は東京にいたかった。

ある晩、屋根裏の若者たちと話しながら色んなことを思い出した。なぜ大分が嫌だったのか、東京が良かったのか。当時の僕の説明は、「世界中の情報に直接触れられるところだからだ」というようなものだったと思う。実に短絡的である。今振り返るとその主張は間違いではないのかもしれないけど、十分ではないはずだ。「世界中の情報に直接触れること」にプライオリティを置くのだとしたら、東京だけではなく世界中に行ったほうがいいに決まっている。

自分に意地悪な言い方をすると、「手に届く範囲で、大分の外に行きたかった」のだろう。物理的にもすぐに帰ることができて、同じ言語で生活できて、本質的には大分と何ら変わることのない東京にいたかったのだと言える。大して「高跳び」しているわけでもない自分、ということが無意識にも自分自身でわかっていたから、東京では大分の人にはなるべく会わないようにしたり、大分に帰ることもなるべく少なくしたり、東京弁を身に付けたりしたのだと思う。今思えば、結局は大分にこだわっていた。何かから遠くに行きたいと言うとき、人はずっとその「何か」を座標軸としてひきずることになるのだ。

それから命懸けで山に登ったりインドを横断したりしたけども、根本的には今でも同じことかもなあ、と少し自己嫌悪にならないでもない。

あとあと困るのにここでいきなり風呂敷を広げてしまうが、「幸せ」というのは何なのだろうか? どうも僕には「幸せとは何か」を語ることはできそうもないけども「何が幸せか」を語ることはできそうだ。僕が幸せを感じるとき、瞬間。仕事に関するものが多いかもしれない。陳腐かもしれないが、仕事で必要とされるときやスタッフや来てくれるお客さんと仕事を越えて人間的な繋がりを感じるとき、一冊の本を通じて誰かと気持ちを共有したり、古代や未来とも連なっていると感じるときは生きていてよかったと思う。

自分で決めた人生を、僕が憧れた道を、歩いている。自慢するものはないし何の賞もない道だが、どちゃくそに疲れてシャワーを浴びながらときには誇りに思う。これは僕にしか歩けない道だ。

僕は大分に、世界で最後の本屋を作ろうと思った。文学に憧れ、文学を信じ、大人になるにつれ、一般的には文学が社会的には必要のないものなのだと気づいていきつつも、文学が世界に、人類にとって、きっといいものだと信じている。だから詩みたいな本屋を作ろうと覚悟を決めた。

もちろん、みんなそれぞれに、覚悟していることは同じなのだ。そしておそらく、幸福には憧れが必要で、充実するというのは実は、選択肢を減らしていくことなのかもしれない。

大切なことは、誰かに「覚悟を決めなさい」と言われたからと言って「はい、わかりました」なんて簡単にはいかないということだ。そんなことみんな知ってるとは思うけど結構重要だぞ。

高校の先生をしている人に聞いた話だが、大分の昨今の中高生は将来の夢を具体的に決めることを求められるそうだ。たしかに課外授業でカモシカに来てくれた高校生はみな、「弁護士」とか「医者」とか即答していて驚いたことがある。冗談を言っている風ではなかった。それを聞いたときは夢があるのはいいことだし、単純にすごいなぁと思ったけど、返答のために用意した形骸的な言葉だと考えると虚しく感じる。それなら「わからない」「夢なんてない」という素直な言葉のほうがいいじゃないかと思う。

本屋っぽい話をすると三島由紀夫が「努力について」という文章でこんなことを書いている。人間にとって苦痛なのは、100メートルを6秒で走れる人に無理やり12秒で走らせることだ、と。その人にとって5.9秒を目指すことは苦痛どころか喜びであるとも。三島が言っているからと言って正しいとかすごいとか思ってはいけないのはもちろんだが、三島のような自分改造の積み重ねの人物がこのように言うのは説得力がある。安易に具体的な夢を語らせるのは、むしろ遅く走らせていることになるのではないか? 少なくとも、無限に広がる遊び場を、砂っぽい校庭にすり替えていることになるのではないだろうか。

話を屋根裏に戻そう。若者たちに思うのは、「悩め、苦しめ」ということしか実は見当たらない。何者でもない、金もない、スキルもない。それで、何が悪いの? むしろそこからしか始まらない。自分のできること、したいこと、憧れるもの、しがらみや宿命や愛や悲しみを全部引き受けて、君だけが歩ける道。それがたとえ非生産的だとしても反社会的だとしても、僕はそれでいいと思う。波乱万丈に生きたドストエフスキーが言っている通り、人間は、悪人が善をなすことも、善人が悪をなすこともあり、最後の最後まで善悪を判定することはできない。

そしていつか社会の中で生きる人間として、仕事に結びつけてほしい。仕事っていうのは、何かを獲得する行為で、獲得したものというのは、自分以外の誰かの力になりたいとき、真っ先に役に立つものだから。お金でも権力でも発言力でもなんでもいいから俗世間的なことも獲得していればきっと、緊急の事態で大切な人を助けることが出来る。

僕なんか、そういう実感を伝えたいから、そのために仕事を頑張っているようなものかもしれない。背中を見せられないと、誰も言うこと聞いてくれないもんね。

以上前置きが長くなったが今回紹介したい1冊は『ハーバード・ジュリアードを首席卒業した私の「超・独学術」』廣津留すみれ、である。

著者はどうやら僕の高校の後輩のようだ。大学のようなものに疎い僕でもハーバード大学は聞いたことがある。「グッド・ウィル・ハンティング」という映画で、清掃夫の仕事をするフリーター、マット・デイモンが不良友だちのケビン・ベーコンとナンパをしにいく所がハーバード大学の学生街である。劇中のマット・デイモンが天才的頭脳を持っていて、ハーバードの教室の黒板にある数学の難問をこっそりと教授よりも巧く解いてみせた後、正体がばれて一躍注目を浴びる。そんなマットにいちころになったのがハーバード生のミニー・ドライヴァーであった。僕はこの映画のラストが忘れられない。数々のやりがいのありそうな仕事を紹介されるマットは、それを全て断り、あとは内緒だ。大切にしたいことが気持ちよく描写される大好きな映画である。ちなみにこの映画を作った頃、マットとケビンは映画とは逆に、本当にハーバード生だった。

この原稿は枚数制限がないのでどうでもいい話をしてしまった。とにかくそんなおそらくは世界一有名な大学に、僕の高校の後輩が現役で合格し、さらに単なるエリート志向では全くなく、なんとバイオリン奏者でもあり、ジュリアードでも学んで首席で卒業しているというのだ。。敢えて言おう。僕はあまり高校に行っていないが読書は好きだったので小論文だけで行ける法政大学という大学に行って、服が好きだから文化服装学院という服飾造形の専門学校にも通った。今は本屋だ。こうして並べてみるときっと笑われるのかもしれないが、それらで学んだ日々、出会った人たちは僕の誇り高い宝物だ。

さらにここではっきり言おう。ハーバードだとかジュリアードだとかは、僕もそうだが、実際ほとんどの人には実感がないだろう。挑戦してもいない、というよりもまずそもそも現実感を持った憧れがないからだ。意味も分からないまま有名なものをすごいと決めつけるのは最も知性から遠い。だから有名な名前など一旦措いて純粋に彼女のチャレンジが何なのかということを考えてみてほしい。家族や親戚、友人たちの期待を一身に背負っただろううら若い18歳の大分の高校生が、ひとりで現代西洋文化の最大の牙城に飛び込んでいったのだ。自分でこじ開けないと絶対に開かない扉。でかすぎる扉は壁にさえ見えると言うのに。日本人だから、地方だから、普通だから、負けるとは限らないぜ。そこに挑んでいく人間は永遠に美しい。僕が言いたいのはほとんどそれに尽きる。

アメリカで自分を認めさせて、一流と思える人物と交流し、今もまさにぐんぐんと自分を育んでいる。もし、これを読んでくれている君が高校生で、そんな彼女の溌溂とした後ろ姿に憧れるなら、それは君の幸福の最大のヒントになるだろう。そうしたらハーバードを目指してみるのもいいかもしれない。もちろん、ハーバードだけが正解とは限らない。

本当に生き抜くことと、うまく生きていくことは全く違う。いつもそう思う。そして人生のある時期でそのどちらを生きるのか決定的に選択を迫られるものだ。人は、憧れるだけ苦しむし、苦しんだだけ人生は微笑む。そう信じていたいし、そう語り続けられるように生きていきたい。

最後に、すみれ氏は隙間の5分を無駄にしないような時間管理しているそうなので、体に気をつけてほしいと思う。疲れたら、転んだら、ゆっくり休んでほしいとちょっと老婆心を持つのは高校の後輩だからだろうか。僕はのんびり生きているからなあ。

大分に帰ったときはカモシカのソファーでぼーっとしてみてほしい。悪くないと思う。お忙しいでしょうけど、屋根裏もおすすめですよ。

 

 

『ハーバード・ジュリアードを首席卒業した私の「超・独学術」』
廣津留すみれ
1,512円

 

 

ー カモシカ書店 ー

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岩尾晋作
大分市中央町にあるカモシカ書店の店主。1982年大分市生まれ。AB型。左利き。

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